冬の名残のにごり湯紀行~第五話

<3/23の続き>

勾配のある道をたどってきた足を止めたせいか、服の繊維と肌との間が不愉快に暑くなってきた。厚手のライダーズジャケットがいよいよ邪魔になり、ジッパーを下げて前をはだける。山から吹く風が、氷の上を渡り、ジャケットを大きくはらませる。冷気が肌に届き、熱を奪い去っていくのが心地良い。そのまま脱ぎ捨てたジャケットの上に、革の手袋を放り投げる。さっきまでワタシの手のひらを温めてくれていた手袋は、寒風に洗われて、すっと冷たくなっていく。その横で、眩しい陽射しが少しずつ斜めになっていった。

山頂から太陽が姿を消すと、空気が変わった。山に切り取られたゲレンデは、夕映えの色に染まることなく、暗く沈んでいく。緩やかな斜面がでこぼこしていることも、青い暗がりに包まれて、すっかり見えなくなっていた。稜線に囲まれた空間だけが、光を残して、空だった。斜面に点在する鮮やかな影は、色を失い、谷間を流れる黒い川に飲み込まれていくようだ。さっきの親子が三人、真ん中の子供が右手にパパの左手、左手にママの右手を握りしめて、ゲレンデを後にしていった。その背中が残照に明るく光っていた。

宿に戻り、早速浴場へと足を運ぶ。二つあるうちの広い方、部屋に案内されるときに教わった「フロントに近い」湯殿を選んでみる。のれんをくぐる前から、辺りに硫黄の匂いが漂ってきて、温泉場に居る幸せを噛みしめる。脱衣所で浴衣を脱いで、洋風のドアノブがまったく不似合いな木製の格子扉を押し開ける。薄暗い浴室には、湯船が左右に二つずつ。向かって左が大きくて、右の湯船はその半分ほどだ。そのぐらいが微かにわかるだけで、白熱灯の明かりも溶けてしまうほど白濁した空間は、メガネを外したワタシに物の輪郭をほとんど判別させてくれないでいた。

スリッパが5足脱いであったから、中には5人いるはずなのに、どこにいるのか見当もつかない。深い霧の中をさまよっている気分だ。正面のガラス戸の向こうには露天風呂。外はまだ、自然の明るさをたたえていた。内湯で温まるのもそこそこに、露天風呂へのガラス戸を引き開ける。雪解けの水が足に触れ、思わず片足立ちになる。そのまま足の裏を丸めて、かかととつま先だけで湯船まで歩いていく。霧は晴れたものの、ひどい近視と乱視でぼやけるのは変わらない。目を凝らすと、スキー場で見かけた父子が仲良く温まっていた。

「一つは小さなスリッパだったっけ」・・・岩で組まれた湯船にゆっくりと身体を沈めながら、男の子に視線を合わせる。もちろん細かな表情は見えないけど、パパの横で楽しげな雰囲気は伝わってくる。ふとした弾みに大きな笑い声を上げては立ち上がり、そのパパに渋い顔をされて・・・あわてて湯船につかる男の子。白くにごったお湯は、小さな肩をやさしく隠していた。遠い記憶の中にあるワタシとryoの姿を見ているようで、心まで温められる思いがした。

<次回、最終話に続く>