1991 Hockenheim~3

初期型フロント16インチのRG250γで筑波サーキットを走っていたmachi-san。それを聞いて「ヘアピン手前は、やっぱり平乗り?」saitoさんも、よく知っている。第一コーナーを過ぎてヘアピンにつながるS字・・・当時流行っていたのが、S字最後の左ヘアピンに合わせて、手前の右カーブで体を逆に動かす“平乗り”。アウト側の膝を開いて走る姿は、峠のS字でもよく見かけた。その平忠彦が好きなこと、エディーやウェインじゃなくて、ワイン・ガードナーに惹かれていたこと、“8耐仕様”の淡い紫色した平レプリカの意匠で、モトクロス用のヘルメットを作りたかったこと・・・およそモトクロスコースの管理人とは思えない話題が飛び出しては、三人ともただの“若造”へと戻っていく・・・。

淡い紫、1985年のケニー・平組。8耐と言えば忘れることのできない記憶がそこにある。最後の30分で息を止めた#21のYZR750。グランドスタンド前で“5バルブ”から離れていく平忠彦の姿は、演出かと思わせるほど完璧な幕引きだった。そのTECH21の走りを、saito“少年”は鈴鹿で見ていたらしい。北海道ツーリングから帰ってきた時、レース結果に彼らの名前が無かった時の驚きをよく覚えている。その6年後、鈴鹿で目の当たりにしたのは、ヨシムラスズキの走り。熱く語れば語るほど、度重なる転倒からコースに戻ってくる姿が、はっきりと思い出される。そして、その同じ1991年。今でも語り継がれるドイツ、ホッケンハイムで「奇跡のブレーキング」を魅せたのは、当時大好きだったケビン・シュワンツ・・・最終ラップ、シケインでの無謀とも思える突っ込みは、当時、テレビで見ていて鳥肌が立つほどだった。「あっ、それ、You Tubeで見たことある」saitoさんも認める、まさに奇跡だ。「直線に5、6個コーナーを入れただけの、超高速サーキットだよね」ホッケンハイムリンクが有数の高速コースであることを知っているのは・・・さすがロード上がりのmachi-san。すっかり話に夢中になって・・・気がつけば、チェッカーまで15分ほどに迫っていた。

受付小屋に戻るsaitoさんの背中を見送りながら、二人、急いで支度を整える。最後の一本は、お互いのCRFに乗り換えて走り出した。先週、machi-sanのマシンに感じた“ツキの良さ”は、ほとんど感じない・・・混合気を濃い目に振ったのは、正解だったようだ。二周ほどしてから、スターティンググリッドの前でマシンを乗り換えて、残り数分を自分のマシンで走り始める。machi-sanのCRF150RⅡのスイングアームが使い物にならなくなるのは・・・・それから、すぐのことだった・・・。

<つづく>