日光湯元の記憶~後編

藍色ののれんをくぐると、上がり口を前に女の子が立っていた。春には小学生らしい、まだ幼い娘は、スリッパを履いたまま、もぞもぞ動いている。ここは男湯。子どもとは言え、やっぱり女の子・・・お父さん以外のおじさんに混じって風呂に入り、好奇の目にさらされるのは、気味が悪いのだろう。それでも「湯気で真っ白だから。何も見えないから」湯船のある浴室を眺めて戻ってきたお父さんに頷いて、ようやく片足を持ち上げた。

お父さんの言葉は正しく、扉の向こうには、深い霧のように湯気が立ちこめていた。ちょうど一年前、同じように視界の悪さを携えたまま、湯船まで小さな足取りで近づいていったのを思い出す。少し緑がかったにごり湯は、硫黄の臭いも、ひなびた湯船も、去年の佇まい。小さく音を立てながら、その内湯の縁に源泉が落ちていた。湯気の正体らしく、湯船は熱い湯をたたえていて、じっと浸かっていると、湯の熱さと硫化水素の刺激で、体がぴりぴりしてくる。のんびりと長湯したいなら、何も無理することはない。外の露天風呂に浸かるのが一番だ。外気で冷たくなったガラス張りの引き戸を左に引いて、右足から濡れた石畳にそっと足を着ける・・・雪の冷たさが、直接足の裏に伝わってきた。

周りに積まれた雪と、空から舞い落ちる雪が・・・肩までもぐっても、ちょうど良い湯加減にしてくれていた。人によっては「ぬるい」と思うかもしれないけど、このくらいの温度じゃなければ時間を愉しむなんて、できやしない。洗い髪に、雪が舞う。湯をすくっては、肩口から二の腕に掛けてやる。なめらかに潤った肌に触れて、手のひらがすべり落ちていく。どうやら、肌にも具合がいいようだ。降る雪は、夜のとばりの裾を、静かに照らしている。ぼやけた視界で見上げていると、すぐそこに見える闇からいきなり雪の粉が撒かれているようだった。

宿泊料金からすれば豪奢な夕餉が、二階の食事処に待っていた。和洋折衷の会席料理は、料理長の名前が記された「お品書き」が卓の上に載せられている。雰囲気のある“演出”が、少し落とした感じの照明に白く光っていた。食前酒だけで、あとは出されるままに口へ運び、空腹を満たしていく。初めて口にした「手打ちおろし塩そば」は、黒いそばつゆに慣れた目に、まったく新しかった。透きとおったそばつゆに大根おろしをまぶして、手打ちされたそばで絡めながら喉に流し込む。海の香りに似た塩気と冷そばは、すぐに気に入る味となった。無心にうまいものを食べていくうちに体が温まってくると、浴衣の襟元から、ほのかな硫黄臭が立ち上ってきた。温泉に来ている実感のする一瞬だ。